概要と特徴
チームカラー
現在は基本色として 青 、サブカラーに 白 を使用している。青は「 日本 の 国土 を 象徴 する 海 と 空 の青」を表すとされているが、これは後付の説明で採用時の正確な理由は、 日本サッカー協会 に資料が現存せず不明である(日本サッカー協会公式見解) [ 5 ] 。 日本代表にとって初の国際試合となった 1917年 極東選手権 では、 東京高等師範学校 (現: 筑波大学 )が日本代表として出場したため、東京高等師範学校ユニホームである 海老茶色 のシャツ(黒のパンツ、白の鉢巻)をそのまま使用した [ 6 ] 。 1930年 の極東選手権の日本代表に大半の選手を送り込んだ 東京帝国大学 は淡青(ライトブルー)のシャツであった [ 6 ] [ 7 ] 。 1936年 ベルリン五輪 に出場した 早稲田大学 主体の選抜チームの日本代表は1930年の極東選手権の代表チームと同じ淡青のシャツを採用し、それ以降もチームカラーとして青が定着することになった [ 6 ] [ 7 ] 。
Reading: サッカー日本代表 – Wikipedia
1964年 東京オリンピック では上下共に白、1968年 メキシコオリンピック では白のシャツに紺のパンツとなり、1970年代以降は白と青が交互に基調とされるようになった。1988年に日本代表監督に就任した 横山謙三 の意向により日本代表のユニフォームは日本の旗「 日の丸 」の色である赤に同年変更され、胸には従来あった日の丸(1980年代半ばからは右下に青字の「J.F.A.」の文字が入る)ではなく三本足の 八咫烏 (やたがらす)が付けられるようになった(ユニフォームの胸の八咫烏のエンブレムは現在も続けて採用されている)。横山が監督を更迭され、1992年に青を基調としたユニフォームに戻され現在も続いている [ 6 ] [ 8 ] 。
歴代
ファーストユニフォーム
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1979-80 |
1980-83 |
1984-85 |
1985 |
1983-86 |
1986-87 |
1988-92 |
1992 |
1992-95 |
1996–98 |
1998–99 | 1999-2000 |
2001 |
2002-03 |
2004-05 | 2005-07 | 2008-09 | 2009-11 | 2012-13 |
セカンドユニフォーム
1998–99 | 1999-2000 | 2001 |
2002-03 |
2004-05 | 2006-07 | 2008-09 |
愛称
2005年10月、日本サッカー協会は5つの候補の中から一般投票を行い、2006年1月27日に他の候補に2倍以上の得票数を獲得した「SAMURAI BLUE 2006」を2006年ワールドカップに向けた愛称にすることが発表された。2009年10月19日には「 SAMURAI BLUE (サムライ・ブルー)」を公式のペットネームとすると定められた [ 9 ] 。 マスメディアでは横山が代表監督となった際に「横山ジャパン」という呼称が使われるようになり、以降「 監督名+ジャパン 」という呼称が用いられている。 フィリップ・トルシエ の代表監督時代は「トルシエ・ニッポン」という呼称も使用されていた [ 10 ] [ 11 ] [ 12 ] [ 13 ] 。 海外メディアでは「ライジング・サン」や「ブルー・サムライ」、「ブルーズ」という愛称もある [ 14 ] 。
マスコット
三本足のカラスである 八咫烏 をモチーフにした「カラッペ」と「カララ」がマスコットキャラクターである。デザインは 松下進 がおこなった。チームユニフォームのデザインが変更される度に、2匹のユニフォームもそれに合わせて手直しされている。
日本代表グッズ
大日本蹴球協會 は、 1936年 ベルリンオリンピック (「 ベルリンの奇跡 」の大会)へ日本代表を派遣する費用のうち、 大日本體育協會 から支給される旅費以外の経費3万円を調達するため、 浴衣 地や 手拭 の販売など積極的に募金活動をした [ 15 ] 。これを端緒にのちの「日本代表グッズ」へつながり [ 6 ] 、現在はレプリカユニフォームやタオルマフラーなどが販売されている。
プレースタイル
最初期の日本のプレースタイルであったショートパス戦法は、1920年(大正9年)頃から日本国内で指導し、1923年(大正12年)8月には『How to play association football』という日本語版の指導書を出版した チョウ・ディン によりもたらされた [ 6 ] [ 16 ] 。後にテクニカルな ブラジル スタイルを模倣するようになった [ 17 ] 。 1960年代から1970年代の代表チームのFWであった 釜本邦茂 以降はシュート・得点能力に優れるFWの選手が存在せず、ゴール前での絶好のシュートチャンスを決めきれないという特徴がある [ 18 ] 。この特徴はしばしば「決定力不足」と形容される [ 18 ] 。 悪質なファウルなどが他のナショナルチームと比べて少なく、世代別代表も含め国際大会ではフェアプレー賞を多く受賞している。 ワールドカップ においては初出場以来連続全21試合でレッドカード0という歴代世界最高連続記録を持っており、FIFAも公式HP内で紹介している [ 19 ] ( 2018年ロシアワールドカップ決勝トーナメント1回戦ベルギー戦 終了時現在。 FIFAワールドカップにおける記録 も参照)。
日本代表監督
プロ化前
ハンス・オフト より前の歴代日本代表監督は、 アマチュア全国リーグJSL からの出向だったので、その給料は所属企業が全て支払っており、また、JFAが日本代表海外遠征費を捻出できず旅行代理店に 手形 で支払うこともあったほど長らく財政難だったこともあり、JFAからは給料も手当も受け取っていなかった。従って、JFAは日本代表監督候補者に就任する前に「日本代表監督を辞めた後、企業に戻れる確約を得てから就任するよう」求めていた [ 20 ] 。JFAに選手待遇改善要求を行い、実現させた ( 後述 ) 森孝慈 ら日本代表コーチ陣に対しては、 日本体育協会 からコーチング料月額数十万円が支払われたが、JFAからの報酬は一切無かった [ 20 ] 。また、 デットマール・クラマー のJFAでの公式の肩書は顧問 ( アドバイザー ) であり、 西ドイツサッカー連盟 ( 現ドイツサッカー連盟 ) から給料が支払われ、JFAからの報酬は原則無かった [ 21 ] 。
プロ化後
初のプロ監督で初の外国人日本代表監督 ( 注:クラマーは顧問 ) の ハンス・オフト の年俸は約7000万円であった [ 20 ] 。オフトは ドーハの悲劇 後、辞任した。ドーハの悲劇後、 ファルカン が日本代表監督に年俸約1億2000万円で就任した。ファルカンの解任後、日本代表監督に就任した 加茂周 の年俸は約7000万円だった。加茂監督は 1998年仏W杯アジア予選 途中で解任され、 岡田武史 (第1期1997-98)が年俸約5000万円で日本代表監督に就任し 1998年仏W杯 まで指揮した [ 20 ] 。 1998 FIFAワールドカップ 後、日本代表監督に就任し日韓W杯まで指揮を執った フィリップ・トルシエ の年俸は約9000万円で、日本代表初のW杯ベスト16 ( =決勝トーナメント進出 ) の快挙を成し遂げた。日韓W杯後、 2006年ドイツW杯 まで指揮した ジーコ の年俸は約2億2000万円だった [ 20 ] 。 2006年ドイツW杯後、日本代表監督に就任した イビチャ・オシム の年俸は約9000万円だった。しかし、オシムが2007年11月16日に脳梗塞で倒れたため(後に回復)退任し、急遽岡田(第2期2007-10)が年俸約8000万円で二度目の日本代表監督に就任、 2010年南アフリカW杯 まで指揮し日本代表二度目のW杯ベスト16(=決勝トーナメント進出)の成績を収めた [ 20 ] 。 2010年南アフリカW杯後、 アルベルト・ザッケローニ が年俸約2億5000万円で日本代表監督に就任し、 2014年ブラジルW杯 まで指揮を執った [ 20 ] 。ブラジルW杯後、 ハビエル・アギーレ が年俸約2億円で日本代表監督に就任したが、スペインのクラブ監督時代の八百長疑惑により2015年2月3日契約解除となった。同年3月12日、 ヴァヒド・ハリルホジッチ が年俸200万ドル ( 約2億7000万円 ) で日本代表監督に就任した [ 20 ] 。ハリルホジッチは、 2018年ロシアW杯 まで指揮する予定であったが2018年4月7日に解任され、同年4月9日に 西野朗 JFA前技術委員長が日本代表監督に年俸約1億2500万円 [ 22 ] で就任した ( 同年4月7日までに西野はJFA理事、JFA技術委員長、 Jリーグ の理事を辞任 ) 。任期はロシアW杯後の7月31日まで [ 23 ] で、ロシアW杯ベスト16の成績を残した。任期満了で退任する [ 24 ] 。在任期間はわずか3カ月23日 ( 114日 ) 間で、日本代表選手との帯同期間は5月21日の合宿から7月5日の帰国会見までのわずか46日間であった。なお、 U-23日本 ( 2018年時点ではU-21日本 ) 監督の 森保一 は西野の日本代表監督就任に伴い、日本五輪代表監督を兼任したまま、ロシアW杯まで日本代表コーチを務めていた。 2018年7月26日、 2020年東京五輪 に出場する U-23日本 ( 2018年時点ではU-21日本 ) 監督の森保が、日本五輪代表監督を兼任したまま、ロシアW杯日本代表コーチから昇格する形で日本代表監督に年俸約1億5000万円 [ 25 ] で4年契約で就任した [ 26 ] ( なお、東京五輪男子代表監督就任時の年俸は4800万円だった [ 27 ] ) 。日本A代表監督と日本五輪代表監督を兼任するのは、トルシエ以来である。また、初の外国人日本代表監督のオフト以降では、W杯後の新日本代表発足時に日本人監督が就くのは初めてである [ 28 ] 。
日本代表選手
プロ化前
プロ化される以前の日本代表選手は、前述の通り、JFAが長らく財政難だったこともあり、JFAから給料や手当を長期に渡って受け取っていなかった。 アマチュア全国リーグJSL 所属の選手がほとんどで、所属企業での給料以外受け取っておらず、 有給休暇 を使って日本代表活動をこなし [ 6 ] 、その諸費用も自費で賄っていた [ 20 ] 。 1970年メキシコW杯アジア・オセアニア予選 終了後、日本代表選手たちがJFAから何の手当ても受け取っていない事実を知ったコーチ(公式の肩書は顧問)の デットマール・クラマー が、「私は君たちに厳しい要求をし過ぎたようだ」と謝罪したエピソードがある [ 6 ] 。 1972年5月、 ペレ が所属する ブラジル の サントスFC が来日し日本代表と対戦した。前売り券は4日で売り切れ、 国立競技場 はほぼ満員(有料入場者数53,516人)となった。この為、当時日本代表だった ジョージ小林 が日本代表合宿中に 長沼健 監督に入場料収入の一部をボーナスとして受け取れないかと要求したが、当時のJFAは依然として財政難だった為、断られた [ 6 ] 。その後、 JFAの財政基盤確立への様々な取り組み の結果、1976年ペレの引退試合以降、JFAの財政は好転し一度も赤字にならずに済むようになった。 森孝慈 が日本代表監督に就任すると、JFAと日本代表選手の手当てなどについて交渉して、1982年から1日3000円の手当てがつくようになり、翌1983年からは出場した場合あるいは勝利した場合にボーナスがつくようになった [ 6 ] 。同時に宿泊施設についても改善された [ 29 ] 。1993年5月15日の Jリーグ 開幕より以前に、ブラジルから帰国した 三浦知良 、日本に帰化した ラモス瑠偉 ら当時の日本代表選手たちがJFAに待遇改善を訴え、日当と勝利給が支給されるようになったが出場給は存在しなかった。
プロ化後
日本プロサッカーリーグ 発足後は、当時の日本代表メンバーの 武田修宏 によると1993年10月28日の ドーハの悲劇 ( 1994年アメリカW杯アジア最終予選 ) の頃の日当は9000円だったという [ 30 ] 。日本は、 1994年アメリカW杯アジア最終予選 第2戦 イラン 戦で1-2で敗戦し、最下位に転落した。そこで第3戦から 川淵三郎 強化委員長 ( 当時。現JFA技術委員会 ) が、独断で勝利ボーナスとして50万円を支払うこととし、第4戦終了後に日本は1位となるなど一時は持ち直した ( 結局、日本は第5戦 イラク戦 の2-2の引き分けで、最終順位は3位 ) 。以後は日当と勝利給が支給されるようになったが、出場給は存在しなかった。
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日本代表選手への報酬総額は年々アップしている。 1994年米W杯アジア予選 の際には、JFAは2億円を用意していた。JFAは米W杯アジア予選の2倍の4億円(出場時間に応じて配分。1人最高1000万円)を仏W杯アジア予選で計上し、日本代表W杯初出場を果たした。 開催国だったため、アジア予選に出場しなかった 2002年日韓W杯 ではJFAは本大会のボーナスとして総額6億9000万円の予算を組んだ。 2005年時点では、試合だけでなく合宿なども含めた日本代表全活動期間の日当が1万円、勝利した場合は勝利給(勝利ボーナス)が全額支給され、引き分けだと半額、負ければ勝利給ゼロで日当のみが支払われた。勝利給は試合の重要性によって異なり、 キリンカップ のような親善試合では10万円、 アジアカップ などの公式戦で30万円、 FIFAワールドカップ (W杯)アジア予選では50万円だった [ 31 ] 。成績が良ければプレミア給も追加して支給され、 2006 FIFAワールドカップ・アジア予選 を突破した際には、日本代表選手1人当たり約1000万円が支給された。 AFCアジアカップ2004 で日本代表が優勝した際には、当時主将のCB 宮本恒靖 が「ベンチの選手にもボーナスを」と訴え、ベンチ入りしたものの出場機会はなかった選手も含め全員に一律で優勝ボーナス300万円が支払われた(2004年までは出場実績に基づき勝利給の支給額を変動)。海外クラブに所属している日本代表選手には、ビジネスクラス相当の移動費が支給され、上位のファーストクラスを利用する場合は、その差額は選手の自己負担となる。これらの日本代表選手が受け取る給料はJFAが選手の銀行口座に振り込む。また選手の負傷に備えて、保険がかけられている。日本代表選手が所属するクラブに対してJFAは選手1人につき、1日1万5千円の「クラブペイメント」を支払っていた。
2010年度は「日本代表選手ペイメント規定」に基づき、代表選手への日当やボーナスが支払われた [ 32 ] 。日当(1日1万円)と勝利給の扱いは2005年時と同様。勝利給は W杯本大会 が200万円、 W杯アジア予選 ・ アジアカップ本大会 ・ コンフェデ杯 が30万円 ( 2012年11月16日から50万円 ) 、 EAFF E-1フットボールチャンピオンシップ ( 旧東アジアカップ ) ・ アジアカップ予選 ・ キリンカップ ・ FIFAランク 10位までのチームとの 親善試合 が20万円 ( 2012年11月16日からFIFAランクに関係なく親善試合は一律20万円 ) 、FIFAランク11-20位までのチームとの親善試合が15万円、FIFAランク21位以下のチームとの親善試合が10万円となった。また、大会ボーナスも W杯本大会 は優勝5000万円が最高額で、2位3000万円、3位2000万円、4位1000万円、ベスト8で800万円、ベスト16(=ノックアウトステージ進出)で600万円、 コンフェデ杯 は優勝300万円、2位150万円、3位100万円、 アジアカップ本大会 は優勝200万円、2位100万円、3位50万円、 EAFF E-1フットボールチャンピオンシップ ( 旧東アジアカップ ) は優勝100万円、2位50万円、3位25万円というように、各大会ごとの各成績別に細かく規定されている。以上の大会ボーナスを出場実績に関係なく該当試合及び大会に選出された日本代表選手全員に一律に支給する。他、 W杯アジア最終予選 出場選手のみが対象のW杯本大会出場権獲得ボーナスがあり、出場実績で変動し最高1000万円まで支払われ、更に貢献度が高い選手には特別報酬100万円または200万円が追加して支払われる。日本代表選手が所属する日本国内のクラブに対してJFAは選手1人につき、派遣費1日5万円、傷害等による出場不能期間の補償1日3万円の「クラブペイメント」を支払っている [ 32 ] [ 33 ] [ 34 ] 。 日本代表選手の給料の支給方法については、JFA技術委員会 ( 旧強化委員会 ) で決めているが、その時の日本代表監督の意向が反映される。 2010 FIFAワールドカップ・アジア予選 では出場給の「実績変動制」が導入された。1試合につき、出場した選手に80万円、ベンチに入った選手に60万円、ベンチ外の選手に40万円(金額はいずれも推定)が支払われた [ 35 ] 。しかし、W杯出場権獲得ボーナスはなかった。これについて 犬飼基昭 JFA会長(当時)は、「南アフリカW杯本大会ベスト4が目標である以上、アジア予選通過はその対象にならない」と述べている。 2010 FIFAワールドカップ では「日本代表選手ペイメント規定」に基づき、総額約2億5000万円が日本代表選手に支払われた [ 32 ] 。 大会ボーナスなど日本代表選手に支払われる賞金 ( 報奨金 ) には、税金がかかる。海外リーグ所属の選手はその国の税法に基づき税金をその国に納める。Jリーグ所属選手の場合、例えば、賞金平均額の約1304万円を獲得した選手は、獲得した賞金は全て「一時所得」となり、得た金額から特別控除額50万円を差し引いた額の50 % の約627万円が課税対象となる [ 36 ] 。
なお、 オリンピック ( 男子本大会はU-23+オーバーエイジ3人迄、女子は年齢制限なし女子A代表 ) の賞金は、成績に応じてJFA及び 日本オリンピック委員会 ( JOC ) の2団体からそれぞれ支払われ、 所得税法 9条1項14号の規定 [ 37 ] 及び2010年の税法改正により、それぞれの五輪の賞金については非課税である ( JOC加盟のJFA及びJOCからの五輪賞金の為。ただし、設定された非課税枠を超えた分は、課税 ) 。JOCがメダリストに支払う報奨金は、2016年リオ五輪で金メダル500万円 ( 2012年ロンドン五輪300万円 ) 、銀メダル200万円、銅メダル100万円であり、個人競技、団体競技に関係なく1人あたりに支払われる。東京五輪ではさらに増額する予定である。JOC加盟団体であるJFAからの日本五輪代表 ( 男女とも ) に対する賞金は、金メダル150万円、銀メダル100万円、銅メダル50万円で、勝利給が30万円、優勝ボーナスは1人500万円である [ 38 ] 。 2010年12月17日、 日本プロサッカー選手会 ( JPFA ) が日本代表の親善試合の勝利給は20万円程度とJ1各クラブの勝利給の半分以下で、ハードな日程の中で招集に応じ、重圧とも戦いながら得る報酬としては極めて低い額であること、肖像権料も90 % がJ各クラブへ分配されているが、選手への分配は認められていないことなどの待遇改善をJFAに要求した [ 39 ] 。以後、両者間で協議が続き、2012年11月16日、勝利給等の昇給が決まった。 W杯アジア予選 等が30万円から50万円にアップするなど、Aマッチの勝利給を全体的に引き上げた。また、親善試合の勝利給は対戦国のFIFAランクにより増減していたが、一律の勝利給に統一された。正式には理事会の承認を経て、2013年3月26日の 2014 FIFAワールドカップ・アジア4次予選 のB組第7節 ヨルダン 戦から実施された [ 33 ] [ 34 ] 。
W杯出場日本代表選手対象年金
2018年2月2日、 田嶋幸三 JFA会長がW杯出場日本代表選手対象の年金制度を創設すると発表した。日本代表等JFAの放映権料を原資とし、毎年3 – 5%を積み立てる案がある。 日本プロサッカー選手会 とも話し合い、早ければ2019年度の予算から組み込む予定である [ 40 ] 。
放映権料及び親善試合等の費用
2012年時点では、日本代表の放映権料は1試合当たり1億5000万円 [ 41 ] 。日本代表の約1週間の海外遠征には約5000万円程度の経費が必要である [ 42 ] 。なお、 ワールドカップアジア最終予選 の放送権やマーケティング権がJFAにないため ( つまり、JFAにW杯アジア最終予選放映権収入なし ) 、 ワールドカップ本大会 前年のJFA収益は下がる傾向にある [ 43 ] 。 2014年時点では、日本代表が国内親善試合を申し込む際に、JFAが対戦国に支払う出場給は強豪国で2-3億円で、移動費 ( 飛行機代含め ) 、宿泊費等も全てJFAが負担する。例えば、2014年の FIFAランク 1位の ドイツ や同年のFIFAランク9位の スペイン などFIFAランク上位国を日本に呼ぶ場合は、上記よりさらに費用がかかる [ 44 ] 。
歴史
太平洋戦争以前
大日本蹴球協會(現: 日本サッカー協会 、JFA)は、 1921年 9月10日に設立され、 1929年 5月17日の第18回 FIFAバルセロナ総会 で 国際サッカー連盟 ( FIFA ) 加盟が承認された。
最初の国際試合は、 1917年 に 東京 で開催された 第3回極東選手権競技大会 の 中華民国 戦( 5月9日 )で、 東京高等師範学校 の単独チームによる日本代表は0-5で敗れた。2試合目の フィリピン 戦( 5月10日 )は、 FW 藤井春吉 が日本代表初得点を含む前半・後半各1点を決めたが、 パウリノ・アルカンタラ に先制点を許すなど前半に5点、後半に10点をフィリピンに奪われ、 2-15と大敗した [ 45 ] 。これは現在も、日本代表における対ナショナルチーム間の対戦における最大差敗戦試合である。 1927年 の第8回極東選手権競技大会には 早稲田WMW が日本代表として出場し、フィリピンを2-1で破って国際試合初勝利を挙げた。 1930年 の 第9回極東選手権競技大会 には単独チームではなく 東京帝国大学 主体ではあったが、初めて全日本選抜が編成された。日本は中華民国と同位優勝し、国際大会における初タイトルを獲得した。 1930年の第1回ワールドカップ 開催にあたり、FIFAは加盟国に招待状を送ったものの、JFAは参加を見送った。その理由は、当時の日本国内が 1927年 の 昭和金融恐慌 以来慢性的な不況であったため、同年の 昭和恐慌 発生でさらに経済状態が悪化していたため、そして、JFA自身も財政難であったためである。 1936年 の ベルリンオリンピック では、 早稲田大学ア式蹴球部 主体の選抜チームの全日本が1回戦で スウェーデン を破った( ベルリンの奇跡 )。五輪後の 8月19日 に行われた グラスホッパー・クラブ・チューリッヒ との親善試合では、1-16で大敗した記録が残っている [ 46 ] [ 47 ] 。これは、日本代表の全ての試合における最多失点試合及び最大差敗戦試合である。 1938 FIFAワールドカップ・予選 にエントリーし、 オランダ領東インド に勝てば本大会出場が決まる筈だったが、折からの情勢不安により参加を辞退した。
戦中
1913年から開催され、サッカー日本代表も1917年の第3回から参加した 極東選手権競技大会 は大会を主催する極東体育協会に 満州国 を参加させようとした日本と拒否する中華民国の対立により1934年の 第10回大会 を最後に幕を閉じた。そのため日本は新たに東洋体育協会を設立し「東洋選手権競技大会」を開催しようとしたが、各国の思惑等により進展せず、1937年の 日中戦争 開戦により中止となった。 その後は 1939年 に日本・満州・ 中華民国臨時政府 の参加により開催された日満華交歓競技大会や、開催権を返上した東京五輪に代わり開催された 東亜競技大会 (1940年・1942年の2回開催)で実施されたサッカーに日本代表も出場している。
戦後から1990年代まで
第二次世界大戦 後の 1945年 11月13日 に、大日本蹴球協會は会費が払えずFIFAから資格停止処分にされた [ 48 ] [ 49 ] [ 50 ] 。 1947年 4月1日 に、大日本蹴球協會から 日本蹴球協会 へと名称を変更し [ 6 ] [ 51 ] 、 1950年 9月23日 にFIFAに再加盟した [ 49 ] [ 51 ] 。 1954 FIFAワールドカップ・予選 でW杯予選に初めての参加となった。なお、 韓国代表 との試合は、本来ホーム & アウェイ方式で行われるはずが、 大韓民国大統領 の 李承晩 の意向( 李承晩ライン )で自国開催を拒否したことにより、2試合とも東京で開催された。日本はホーム開催であったが1分1敗となり出場を逃した。 1950年代から60年代の日本は、 アマチュアリズム 全盛の時代であった。当時の全日本選抜選手 ( 現日本代表選手 ) であった 長沼健 によれば 1954年のW杯予選 に出場した頃は、そもそもW杯がどんな大会か分からずに戦っていたという [ 6 ] 。また、 東京オリンピック を目指して強化していた時期も重なり、W杯よりも オリンピック (以下五輪と略すことあり)に重点が置かれ、 1968年 の メキシコシティ五輪 で銅メダルを獲得した。 1974年 8月31日 、協会は 財団法人 となり、協会誕生より53年間の 任意団体 から脱却し、同時に日本蹴球協会から 日本サッカー協会 に名称を変更した [ 51 ] [ 52 ] 。2012年4月1日付で 公益財団法人 となり、それまで監督官庁だった 文部科学省 から完全な独立を果たした(2012年3月31日までは、財務諸表などを文部科学省に届ける必要があった) [ 53 ] 。 1986 FIFAワールドカップ・アジア予選 の最終予選の韓国戦で2戦2敗に終わり、本大会出場を逃したが、先立つ1983年にプロリーグを発足させていた韓国に敗れたことによりアマチュアリズムの限界を悟ったJFAは、翌 1986年 に スペシャル・ライセンス・プレーヤー の導入を決定した。 ソウルオリンピックサッカー アジア予選で、守備的戦術により最終戦を前に予選グループ首位に立ち、 1987年 10月26日 、ホーム 国立競技場 で 中国 に引き分ければ20年ぶりのオリンピック出場を決められる試合で0-2で敗戦、中国にオリンピック初出場を許したが、これがきっかけとなり、 日本サッカーリーグ の中に「リーグ活性化委員会」が設置された [ 54 ] 。また、JFAの最大の目標だった オリンピックサッカー競技 が1992年の バルセロナ五輪 から23歳以下の選手の大会へ規定が変更されていた為、日本A代表の目標がW杯へ変わることになった [ 6 ] 。 1992年3月、ハンス・オフトが日本代表初の外国人監督として就任。 1994 FIFAワールドカップ・アジア予選 では最終予選に進出したが、最終戦の イラク 戦で後半の アディショナルタイム に同点ゴールを決められて引き分けとなり、W杯への出場を逃した( ドーハの悲劇 )。 1998 FIFAワールドカップ・アジア予選 ではプレーオフで延長戦でのVゴールにより イラン を破り、初めてのW杯出場権を獲得した( ジョホールバルの歓喜 )。
FIFAワールドカップ
代表世界大会の最高峰の大会であり、 国際Aマッチデー に入っている。 詳細については、各大会の記事を参照 。
- 1998年大会
- 初出場となった[55]この大会はグループリーグでアルゼンチン、クロアチア、ジャマイカに3戦全敗し、グループリーグ最下位で終えた。なお、ジャマイカ戦で中山雅史がW杯初得点を決めた。
- 2006年大会
- 2大会ぶりに予選に参加しアジア予選では1次予選で6戦全勝、最終予選でも5勝1敗の成績で1位で通過、3大会連続の本大会出場を果たすと共に時差の関係でワールドカップ地区予選突破第1号となった。前回大会で活躍した中田英寿ら黄金世代の選手達が20代後半〜30代前半と円熟期を迎え、更に前回大会に出場の叶わなかった中村俊輔や高原直泰が加わったチームは「史上最強」と謳われ、最終予選では視聴率が40%を超える試合が続出する等日本サッカーファンの期待はかつて無い程大きく高まっていた。しかし、初戦のオーストラリア戦では中村が代表の大会初得点を挙げるも、後半に長身選手を投入したオーストラリアに押し込まれ、39分にルーカス・ニールのロングスローをパンチングでクリアしようとした川口能活が飛び出してしまい、混戦からティム・ケーヒルに同点弾を奪われると、5分後にも疲労で前に出られずケーヒルにミドルシュートを決められて逆転される。ジーコはグルノーブル・フット38に移籍する前の2005年に16ゴールを挙げガンバ大阪のJリーグ初優勝に貢献した大黒将志を投入、アジア最終予選初戦の北朝鮮戦でロスタイムに勝ち越し弾を挙げて窮地を救った他、前年のコンフェデレーションズカップではブラジルとギリシャからもゴールを奪う等前年は5得点でかつ全て後半の残り15分間に挙げている為、大黒の終盤に入ってからの得点力に賭けたが最終ラインの茂庭を交代させた分前掛かりになった所をカウンターで切り裂かれた末、ジョン・アロイージに決められて、残り時間6分から3点を奪われ1-3と逆転負けを喫した(カイザースラウテルンの悪夢)。続くクロアチア戦では2試合連続の午後3時キックオフと酷暑の中、前半21分にダド・プルソを宮本恒靖が倒して献上したPKを川口がセーブする活躍を見せるが、後半6分に加地亮のオーバーラップからの決定機をフリーだった柳沢敦が外して無得点のまま引き分ける。宮本を出場停止で欠いた状態で臨み2点差で勝たなければならなかった3戦目のブラジル戦では玉田圭司のゴールで先制するも、ワールドカップの通算得点でゲルト・ミュラーの記録越えがかかったロナウド(当時12ゴール)から2ゴールを奪われるなど1-4と逆転負けを喫してグループリーグ最下位で大会を終えた。なお、この大会をもって中田が現役を引退した。サッカーダイジェストによると、ドイツ大会不振の原因の一つに、ジーコが守備の約束事を示さなかった事で大会直前に選手間で話し合った所、プレスの掛け所を巡って意見が割れた事でチームワークに亀裂が入ったまま本大会に入った事があるとされる[56]。
FIFAコンフェデレーションズカップ
各大陸別選手権の王者の大会で、プレW杯の大会で、 国際Aマッチデー に入っていた。 2017年大会(第10回) で廃止 [ 60 ] 。
アジアカップ
アジアサッカー連盟(AFC) 主催のアジアの代表王者を決める大会で、 国際Aマッチデー に入っている。優勝すれば FIFAコンフェデレーションズカップ ( 2017年大会で廃止 ) [ 60 ] に出場できた。 アジアにおいてはAFC主催のアジアカップ(サッカー単一種目での大陸選手権)と並んで、 アジアオリンピック評議会 主催の アジア競技大会 (総合競技大会)がかつて高い位置を占めていたので、サッカー日本代表は後者をより重視した。その理由としては、当時はアマチュアリズム全盛の時代で、オリンピックを重視していたため五輪と同年のアジアカップを軽視していたことや、現在とは違い代表に投資できる年間予算も限られていたことなどが挙げられる(当時のアジア大会の最高成績は1951年ニューデリー大会と1966年バンコク大会の3位。 U-23の大会に変わった 後の2010年広州大会で優勝を果たしている)。 1967年 7月、 台北 で開催された 第4回アジアカップイラン大会 東地区予選に日本B代表が初参加したものの予選で敗退した。B代表が出場したのは、同じ7月にA代表がペルーとブラジルへ遠征中だったためである。続く 第5回タイ大会 は不参加。 1975年 6月、 香港 で開催された 第6回イラン大会 東地区予選では初めてA代表が出場した。東地区予選大会は決勝に進んだ2チームが出場する形だった。6月14日の組み分け予備戦 ( 組み分けを決める為に行う試合 ) で 香港 と対戦し引き分けたもののPK戦で勝てず ( 0-0 ( PK3-4 ) ) 、グループリーグでは1勝1敗で準決勝に進み、 中国 と対戦したが、6分、33分と失点。日本の得点は43分に1点を返したのみで終わり、1-2で敗れ、予選敗退が決まった。その後、 第7回クウェート大会 、 第8回シンガポール大会 と立て続けに参加しなかった。 前述のとおり、1992年バルセロナ五輪から五輪が23歳以下の選手の大会になったことで、1987年10月26日にソウル五輪アジア最終予選第6戦最終戦中国戦で日本が0-2で敗れ、予選敗退が決まった直後からJFAは日本A代表の最大の目標を ワールドカップ へと完全に切り替えた。 1988年 、 第9回カタール大会 予選で大学生を主体とするB代表が初めて予選を突破し、そのままB代表が同年12月の本大会に出場したが、本大会では1次リーグ4試合を通じ無得点で1分3敗のグループ最下位で大会を終えた。当時は依然としてJFAやマスコミはアジアカップを軽視しており(同時期に日本で開催していた トヨタカップ を重視し、アジアカップに帯同する記者が少なかったことについて大会の関係者が次回の日本開催について考えなおす旨の発言もあった)、 バルセロナ五輪 (この五輪から23歳以下の大会)アジア予選に向けたチーム作りの一環として第9回カタール大会予選にB代表を参加させた。ところが、期せずして予選を突破した為、そのまま本大会にも出場させたという [ 6 ] (ただし、このB代表からはいずれも1969年8月1日生以降という年齢制限のため五輪予選には参加していない)。 JFAは、日本代表監督としては史上初の外国人監督 ハンス・オフト を1992年3月に日本代表監督へ就任させた。 1992年 10月30日から開幕する 第10回日本大会 へは開催国として出場が決まっており、開催国としても、翌年5月15日に迫ったJリーグ開幕に向け盛り上げる為にも、オフトがチームを掌握する為にも(就任当初は基礎を徹底するオフトに主力が反発するも結果が出るに従い収まっていったが、中心選手の ラモス瑠偉 だけが猛反発。1992年9月26日のオフトとの個人面談で和解したが [ 61 ] 、アジアカップの結果次第では再燃する恐れがあった)、そして何より翌年4月8日から始まる 1994年アメリカW杯 アジア予選(1993年4月8日がアジア一次予選初戦 タイ 戦)に自信を持って挑む為にも、この大会での勝利、好成績が求められていた [ 6 ] 。 広島県 各地で開催された日本大会では、初戦の UAE 、2戦目の 北朝鮮 といずれも引き分け、3戦目の前にUAEが北朝鮮に勝利したため [ 注釈 3 ] 暫定3位となり、それまで1勝1分の イラン に勝たなければグループリーグ敗退となる状況で、53分に相手FWが退場になり人数的に有利になりながらもなかなか得点を挙げられなかったが、87分に 井原正巳 のパスから 三浦知良 のゴールで先制し、その後アディショナルタイムにイランにさらに2人の退場者が出る荒れた試合になったものの1-0で辛勝、決勝トーナメント進出を決めた。準決勝の 中国 戦では開始早々に失点、その後後半に2点を入れ逆転したものの、60分にGK 松永成立 が相手を蹴ったとしてレッドカードで退場、1人少ない状態から一旦は追いつかれたが、84分の中山雅史のヘディングゴールで3-2で辛勝。決勝では、 サウジアラビア に対し、36分の 高木琢也 のゴールを守り切り1-0で勝利、主要国際大会で史上初めての優勝をもたらした。実質日本が初めて真剣に取り組んだアジアカップで、初の栄冠を勝ち取ったのであった。またこの大会は日本各地に サポーター が生まれるきっかけにもなった(それまでも東京の 国立 では 日本サッカー狂会 をはじめ数少ないサポーターたちが声をそろえて応援し続けていたが、この大会では ウルトラス・ニッポン の一般観客を巻き込みながらスタンド全体で手拍子と歌によって行う大規模な応援が注目を集め、マスコミが報道した [ 6 ] 。そのことで翌年のJリーグ開幕以降、日本各地にサポーターが誕生することになった)。 1996年 の 第11回UAE大会 はグループリーグを3戦全勝で通過したものの、準々決勝で クウェート に0-2で敗れ連覇ならず。 2000年 の 第12回レバノン大会 は直前の シドニー五輪 を戦った 中村俊輔 ・ 高原直泰 ら「 黄金世代 」といわれたシドニー五輪代表と、 名波浩 や 川口能活 ら フランスワールドカップ 以来のメンバーが融合したチームを フィリップ・トルシエ 監督が率い、圧倒的なパフォーマンスで大会を席巻。グループリーグを2勝1分で1位通過すると、準々決勝では イラク を4-1、準決勝では 中国 を3-2でそれぞれ逆転で降す。そして決勝戦では前回優勝の サウジアラビア を1-0で破り、2大会ぶり2度目の優勝を果たした。 2004年 の 第13回中国大会 ではジーコ監督のもと主力を怪我などで欠き、地元中国との対戦のみならず全ての試合で、プレー中のみならず国家斉唱の際にまで中国人サポーターの激しいブーイングを受けるなど逆境の中での戦いであったが、ノックアウトステージでは初戦の ヨルダン 戦ではPK戦にもつれ込み、1-3の絶体絶命の場面からGK 川口能活 の2つのセーブを含む相手の4本連続失敗で逆転勝利 [ 62 ] 、準決勝では0-1から39分に 遠藤保仁 が退場処分となり不利になりながら後半に一旦逆転、その後再逆転を許すも終了間際に 中澤佑二 のゴールで同点に追いつき、延長に入り 玉田圭司 の決勝ゴールを守り切り4-3で決勝進出、決勝戦では地元中国を3-1で下して、2大会連続3度目の優勝を果たした。 2007年 の 第14回4ヵ国(タイ、マレーシア、ベトナム、インドネシア)共催大会 ではグループリーグを2勝1分の1位で通過。準々決勝では初参加の オーストラリア をPK戦の末に勝利してベスト4へ進んだものの、準決勝でサウジアラビアに2-3で敗れ3連覇はならず、さらに3位決定戦でも韓国相手にPK戦を制することが出来ず4位に終わった [ 注釈 4 ] 。 2011年 の 第15回カタール大会 ではグループリーグを2勝1分の1位で通過。準々決勝の地元 カタール 戦では10人になりながらも3-2で逆転勝利。準決勝の韓国戦では延長戦でも決着が付かずPK戦に突入し、 川島永嗣 が相手のPKを2本止める活躍で勝利し決勝進出。決勝のオーストラリア戦では0-0のまま延長戦に突入し、延長後半に 長友佑都 の左サイドからのクロスボールに 李忠成 がボレーシュートで合わせ代表初ゴールとなる決勝点を決めて、2大会ぶり4度目(歴代最多)の優勝を遂げた。 2015年 の 第16回オーストラリア大会 ではグループリーグを3戦全勝、無失点で1位通過。準々決勝の UAE 戦では開始早々にこの大会初失点を喫するも、終盤に 柴崎岳 のゴールで追いつき延長戦に突入。ボール支配率・シュート数では相手を圧倒し、決定機をことごとく作りながらそれらを全て逃し続け、延長戦でも勝負を決められずPK戦の末1番手の本田と6番手の香川が失敗し無敗(3勝1分)のままベスト8で敗退。準々決勝敗退は 加茂周 監督が日本代表を率いた19年前の1996年大会以来5大会ぶりとなり、 Jリーグ 発足後に参加したアジアカップとしても同大会と並び過去最低タイ記録となった [ 63 ] 。 2019年 の 第17回UAE大会 ではグループリーグから準々決勝までの5試合を全て1点差で勝利。準決勝では優勝候補のイランを3-0で破り決勝進出。しかし、決勝でカタールに1-3で敗れ2大会ぶりの優勝を逃した。なお、この試合が 森保一 体制となってからは初の敗戦であった [ 注釈 5 ] 。
コパ・アメリカ
南米サッカー連盟(CONMEBOL) 主催の南米の代表王者を決める大会で、 国際Aマッチデー に入っているが、CONMEBOLに所属していない招待された代表には国際Aマッチデーによる拘束権はない。 日本代表は アメリカ州 外から コパ・アメリカ に招待参加した最初のチームで、これまでに 1999年大会 と 2019年大会 に出場した。 2011年大会 にも招待を受け出場予定であったが [ 64 ] 、同年3月に発生した 東日本大震災 に伴うJリーグの日程変更により、主力となるはずの国内クラブ所属選手の招集が難しくなり、また欧州クラブ所属選手の招集も困難であった(アジア大陸の選手権ではないので代表拘束権がない)ことなどから、参加を断念。 2015年および2016年もスケジュール調整の関係で参加を辞退した。 1999年大会以来の出場となった、2019年大会は平均年齢22.3歳という 東京五輪 世代中心で構成されたメンバーで、初戦の チリ 戦は0-4と大敗したが、2戦目の ウルグアイ 戦は2-2の引き分けに持ち込み、勝てば決勝トーナメント進出となる3戦目の エクアドル 戦では 中島翔哉 のゴールにより先制するも、1-1の引き分けに終わり、決勝トーナメント進出を逃した。
EAFF E-1サッカー選手権
東アジアサッカー連盟(EAFF) 主催の東アジアの代表王者を決める大会。 国際Aマッチデー には入っていないため、各国とも、国内以外の海外リーグに所属する選手を招集するのが難しく、国内リーグの選手のみの代表となることがほとんどである。 日本代表は 2003年大会 から出場しており、2019年現在の成績は、優勝1回、準優勝5回、3位1回、4位1回である。 2017年大会 では、初戦の 北朝鮮 戦は前半から攻めあぐねる場面が散見されるなどかなりの接戦を強いられたが、後半ATに 井手口陽介 がボレーシュートを決めて1-0と競り勝った [ 65 ] 。第2戦の 中国 戦も初戦に続き、前半は決定力を欠いてスコアレスで折り返したが、試合終盤の84分に 小林悠 が代表初ゴールを決めると、その4分後には 昌子源 が約40メートルのロングシュートを打ち、追加点を決めた(ゴールを決めた昌子も代表初ゴールとなった)。試合終了間際にPKを決められ1点返されるも、2-1で逃げ切り勝利した [ 66 ] 。最終戦の 韓国 戦は3分に小林のPKで先制するも、1-4と大敗を喫した [ 67 ] 。 2019年大会 では、初戦の 中国 戦は29分に 鈴木武蔵 が先制ゴールを決めると、70分には 三浦弦太 が2点目のゴールを決めた(ゴールを決めた2人はいずれも代表初ゴールとなった)。試合終了間際に1点を返されたものの、同点にさせることなく2-1と勝利した [ 68 ] 。第2戦の 香港 戦は 菅大輝 、 田川亨介 、 小川航基 の東京五輪世代の3人が躍動し、5-0で大勝した(ゴールを決めた3人は全員が代表初ゴール、小川は代表デビューでハットトリック達成という史上3人目の快挙を成し遂げた) [ 69 ] 。最終戦の 韓国 戦は28分に先制ゴールを決められ、0-1で敗戦した [ 70 ] 。
成績
FIFAワールドカップの成績
FIFAワールドカップ | FIFAワールドカップ・予選 | |||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
開催国 / 年 | 結果 | 試合数 | 勝 | 分 | 負 | 得点 | 失点 | |||||||
試合数 | 勝 | 分 [注1 1] |
負 | 得点 | 失点 | |||||||||
1930 | 不参加 | 不参加 | ||||||||||||
1934 | ||||||||||||||
1938 | ||||||||||||||
1950[注1 2] | ||||||||||||||
1954 | 予選敗退 | 2 | 0 | 1 | 1 | 3 | 7 | |||||||
1958 | 不参加 | 不参加 | ||||||||||||
1962 | 予選敗退 | 2 | 0 | 0 | 2 | 1 | 4 | |||||||
1966 | 不参加 | 不参加 | ||||||||||||
1970 | 予選敗退 | 4 | 0 | 2 | 2 | 4 | 8 | |||||||
1974 | 4 | 1 | 0 | 3 | 5 | 4 | ||||||||
1978 | 4 | 0 | 1 | 3 | 0 | 5 | ||||||||
1982 | 4 | 2 | 0 | 2 | 4 | 2 | ||||||||
1986 | 8 | 5 | 1 | 2 | 15 | 5 | ||||||||
1990 | 6 | 2 | 3 | 1 | 7 | 3 | ||||||||
1994 | 13 | 9 | 3 | 1 | 35 | 6 | ||||||||
1998 | グループステージ敗退 | 3 | 0 | 0 | 3 | 1 | 4 | 15 | 9 | 5 | 1 | 51 | 12 | |
2002 | ベスト16 | 4 | 2 | 1 | 1 | 5 | 3 | 免除(開催国) | ||||||
2006 | グループステージ敗退 | 3 | 0 | 1 | 2 | 2 | 7 | 12 | 11 | 0 | 1 | 25 | 5 | |
2010 | ベスト16 | 4 | 2 | 1 | 1 | 4 | 2 | 14 | 8 | 4 | 2 | 23 | 9 | |
2014 | グループステージ敗退 | 3 | 0 | 1 | 2 | 2 | 6 | 14 | 8 | 3 | 3 | 30 | 8 | |
2018 | ベスト16 | 4 | 1 | 1 | 2 | 6 | 7 | 18 | 13 | 3 | 2 | 44 | 7 | |
合計 | 最高成績:ベスト16 (3回) 21大会中/6大会出場 |
21 | 5 | 5 | 11 | 20 | 29 | 120 | 68 | 26 | 26 | 247 | 85 |
FIFAワールドカップでの全試合結果
FIFAコンフェデレーションズカップの成績
出場した大会のみ表記
開催国 / 年 | 結果 | 試合数 | 勝 | 分 | 負 | 得点 | 失点 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
キング・ファハド・カップ(サウジアラビア開催・運営) | ||||||||
1995 | グループステージ敗退 | 2 | 0 | 0 | 2 | 1 | 8 | |
FIFAコンフェデレーションズカップ(FIFA管轄) | ||||||||
2001 | 準優勝 | 5 | 3 | 1 | 1 | 6 | 1 | |
2003 | グループステージ敗退 | 3 | 1 | 0 | 2 | 4 | 3 | |
2005 | 3 | 1 | 1 | 1 | 4 | 4 | ||
2013 | 3 | 0 | 0 | 3 | 4 | 9 | ||
合計 | 最高成績:準優勝 | 16 | 5 | 2 | 9 | 19 | 25 |
AFCアジアカップの成績
コパ・アメリカの成績
出場した大会のみ記載。
コパ・アメリカ | |||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
開催年 | 結果 | 試合数 | 勝 | 分 | 負 | 得点 | 失点 |
1999 | グループステージ敗退 | 3 | 0 | 1 | 2 | 3 | 8 |
2019 | グループステージ敗退 | 3 | 0 | 2 | 1 | 3 | 7 |
合計 | 6 | 0 | 3 | 3 | 6 | 15 |
ダイナスティカップの成績
- 1990 – 4位
- 1992 – 優勝
- 1995 – 優勝
- 1998 – 優勝(開催国)
EAFF E-1サッカー選手権の成績
EAFF E-1サッカー選手権 | ||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
開催年 | 結果 | 試合数 | 勝 | 分 | 負 | 得点 | 失点 | |
2003 | 準優勝 | 3 | 2 | 1 | 0 | 3 | 0 | |
2005 | 準優勝 | 3 | 1 | 1 | 1 | 3 | 3 | |
2008 | 準優勝 | 3 | 1 | 2 | 0 | 3 | 2 | |
2010 | 3位 | 3 | 1 | 1 | 1 | 4 | 3 | |
2013 | 優勝 | 3 | 2 | 1 | 0 | 8 | 6 | |
2015 | 4位 | 3 | 0 | 2 | 1 | 3 | 4 | |
2017 | 準優勝 | 3 | 2 | 0 | 1 | 4 | 5 | |
2019 | 準優勝 | 3 | 2 | 0 | 1 | 7 | 2 | |
2022 | ||||||||
合計 | 9/9 (優勝1回) | 24 | 11 | 8 | 5 | 35 | 25 |
オリンピックの成績
オリンピックサッカー日本代表選手 も参照。1992年大会以降の成績は U-23サッカー日本代表 # オリンピックの成績 を参照。
オリンピック | ||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
開催年 | 結果 | 試合数 | 勝 | 分 | 負 | 得点 | 失点 | |
1908 | 不参加 | |||||||
1912 | ||||||||
1920 | ||||||||
1924 | ||||||||
1928 | ||||||||
1936 | ベスト8 | 2 | 1 | 0 | 1 | 3 | 10 | |
1948 | 不参加 | |||||||
1952 | ||||||||
1956 | 1回戦敗退 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 2 | |
1960 | 予選敗退 | |||||||
1964 | ベスト8 | 3 | 1 | 0 | 2 | 5 | 9 | |
1968 | 銅メダル | 6 | 3 | 2 | 1 | 9 | 8 | |
1972 | 予選敗退 | |||||||
1976 | ||||||||
1980 | 不参加 | |||||||
1984 | 予選敗退 | |||||||
1988 | ||||||||
合計 | 4/17 | 12 | 5 | 2 | 5 | 17 | 29 |
アジア競技大会の成績
2002年大会以降は U-23サッカー日本代表 # アジア競技大会の成績 を参照。
- 1951 – 3位
- 1954 – グループリーグ敗退
- 1958 – グループリーグ敗退(開催国)
- 1962 – グループリーグ敗退
- 1966 – 3位
- 1970 – 4位
- 1974 – 1次リーグ敗退
- 1978 – 1次リーグ敗退
- 1982 – ベスト8
- 1986 – グループリーグ敗退
- 1990 – ベスト8
- 1994 – ベスト8(開催国)
- 1998 – 2次リーグ敗退(ベスト16)※
※1998年大会は、大会規定上はフル代表が出場可能であったものの、日本は U-21の選手 で参加した。
AFCソリダリティーカップ
- 2016年 – 不参加
主な成績
選手
定義
世界的に、また日本の記録集においても代表選手とは「 国際Aマッチ での 出場経験選手 」を条件とし、その出場回数を キャップ数 と言う。しかし、個々の選手を定義する場合、選出されながらも出場しなかった場合などでは意見が分かれる。また黎明期には日本代表がヨーロッパや南米のクラブチームと対戦した例も多く、その扱いも定まっていない。日本サッカー協会関係者 [ 誰? ] は、明確な基準は無く、また時代とともにルールや環境が変わっている点を指摘し、以下の場合でも選手を「元日本代表」としてもよいのではと話している [ 72 ] 。
- ワールドカップやアジアカップの本選や予選などFIFA公式戦で日本代表に選出されたが出場機会が無かった。
- 国代表との親善試合で選出されたが出場機会が無かった。
- 対戦相手がクラブチームなど代表でなくとも、日本代表として選出された。
記録
2021年11月16日オマーン戦終了時 ( # ) は現役選手
出場数
位 | 名前 | 出場数 | 得点数 | 期間 |
---|---|---|---|---|
1 | 遠藤保仁(#) | 152 | 15 | 2002-2015 |
2 | 長友佑都(#) | 131 | 4 | 2008- |
3 | 井原正巳 | 122 | 5 | 1988-1999 |
4 | 岡崎慎司(#) | 119 | 50 | 2008-2019 |
5 | 川口能活 | 116 | 0 | 1997-2008 |
6 | 長谷部誠(#) | 114 | 2 | 2006-2018 |
8 | 中澤佑二 | 110 | 17 | 1999-2010 |
7 | 吉田麻也(#) | 113 | 11 | 2010- |
9 | 中村俊輔(#) | 98 | 24 | 2000-2010 |
9 | 本田圭佑(#) | 98 | 37 | 2008-2018 |
得点
JFAは、最多得点者を釜本邦茂(75得点)としている [ 注釈 1 ] 。
位 | 名前 | 得点数 | 出場数 | 期間 |
---|---|---|---|---|
1 | 釜本邦茂[注釈 1] | 75 | 76 | 1964-1977 |
2 | 三浦知良(#)[注釈 1] | 55 | 89 | 1990-2000 |
3 | 岡崎慎司(#) | 50 | 119 | 2008-2019 |
4 | 原博実 | 37 | 75 | 1978-1988 |
4 | 本田圭佑(#) | 37 | 98 | 2008-2018 |
6 | 香川真司(#) | 31 | 97 | 2008-2019 |
7 | 高木琢也 | 27 | 44 | 1992-1997 |
8 | 木村和司 | 26 | 54 | 1979-1986 |
9 | 中村俊輔(#) | 24 | 98 | 2000-2010 |
9 | 大迫勇也(#) | 24 | 55 | 2013- |
一方、 国際サッカー歴史統計連盟 ( IFFHS ) は、 三浦知良 と 釜本邦茂 (共に55得点)を最多得点者としている。世界では国際サッカー歴史統計連盟と同じ基準で代表の公式記録が作成されているのが通例である。これは以下に示す JFA、IFFHS 両者の統計方法の違いによる。
- JFA – 1988年以前のオリンピック予選および本大会における、プロリーグの存在しない国・地域の、年齢制限のないオリンピック代表チームとの試合は国際Aマッチとする。
- IFFHS – FIFA(国際サッカー連盟)が1999年に出した声明を元に「1954年以降の全てのオリンピック関係の試合を国際Aマッチと認めない」という基準を採用している。
主な公式記録
背番号
最も大きな数の背番号をつけ日本代表の公式戦に出場したのは 権田修一 (88番、 AFCアジアカップ2011予選大会 、対 イエメン 、アウェー戦 ) 。 また同試合においては、既に登録された77人の選手に加え、19人の選手を追加した為、総勢96人となり、欠番も関係し、 河野広貴 が背番号100で登録された。
歴代監督の一覧
- :代行監督
- 試合数および成績は日本サッカー協会が認めた国際Aマッチのみをカウントしており[82]、試合数が0の監督がいるのは指揮した試合がすべて国際Aマッチ以外の試合だったためである
- 略式:WC=FIFAワールドカップ、IC・CC=FIFAコンフェデレーションズカップ、OG=オリンピックのサッカー競技、AC=AFCアジアカップ、AG=アジア競技大会サッカー競技、FEC=東アジアカップ、FEG=極東選手権競技大会サッカー競技、CA=コパ・アメリカ、予=各大会ごとの予選
年代別日本代表
国籍以外の資格制限がない、いわゆるA代表( 国際Aマッチ の成立要件となる)のほかに、派遣対象となる試合が選手資格に制限を設けている場合などに、資格を満たす範囲で選手を選出しチームを編成する。このときは、日本代表という呼称の前に制限や派遣大会の名称等を関して、A代表との区別をする(ただし、正式にはA代表にも派遣大会名称を冠している)。
- オリンピック日本代表 – 1992年バルセロナオリンピック以降、オリンピックのサッカー競技の予選および本大会では、原則として23歳以下の選手に限るという制約が設けられた。このため予選期間にはU-23日本代表(前年に予選が行われる場合はU-22日本代表)と呼ばれることが多いが、本大会ではオーバーエイジ枠を含むことができるため、オリンピック日本代表という呼称が用いられる。詳細はオリンピックサッカー日本代表選手を参照。年齢に制限は無く、アマチュアのみに出場が許された1968年のメキシコシティ大会でオリンピック日本代表は銅メダルを獲得した。
- ユニバーシアード日本代表 – 大学生のスポーツ大会であるユニバーシアードのサッカー競技に派遣される日本代表を指す。選考範囲は原則として大学または大学院在学中、ならびに大会の前年に大学または大学院を卒業した選手に限られる。その他の大会で同じ選考範囲で選手構成がなされる場合は、学生日本代表や大学日本代表、もしくは学生選抜や大学選抜と断りを入れるなどをして呼ばれることが多い。ユニバーシアード日本代表は、1995年の福岡大会で初優勝、その後2001年北京大会、2003年大邱大会および2005年イズミル大会で3大会連続、2011年深圳大会、2017年台北大会、2019年ナポリ大会と合計7回の優勝を果たしている。
スポンサー
日本A代表 などの各種代表および各年代別代表のスポンサーには、現在は5つのカテゴリーがある [ 83 ] [ 84 ] 。
オフィシャル(公式)パートナー
オフィシャル(公式)サプライヤー
サポーティングカンパニー
アパレルプロバイダー
プロバイダー
- 過去
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- ウブロ(2015年10月1日 – 2016年9月30日)
- ウブロの腕時計日本代表モデル「ビッグ・バン ブルー ヴィクトリー」の提供を通じて日本代表チームを支援していた[108]。
なお、スポンサーについての詳細及び他のJFAの財源等については 日本サッカー協会のJFA財務内容の項 参照のこと。
脚注
注釈
出典
関連項目
外部リンク
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